「ムラ社会」という単語をついこの間知りました。
wikipediaから引用すると
特徴
以下のような特徴が見られる。
- 長による支配、ボスと子分の上下関係が厳然と存在する。
- 所属する「村」の掟や価値観、しきたりが絶対であり、マイノリティや多様性の存在自体を認めない。
- 出る杭は打たれる。長い物には巻かれるべし。寄らば大樹の陰。義理と人情。横並び。
- 排他主義に基づく仲間意識が存在する。
- 自分逹の理解できない『他所者』の存在を許さない。
- 同郷者に対しては「自分達と同じで当たり前」という意識を抱いており、自我の存在を認めない。
- 一見異端者に寛容に見えても、相手を理解しようとではなく理解できるものに改造しようとしていたり、特例で見逃されているだけであったりする。
- 白か黒、善か悪、全否定か全肯定といった二極論を良しとする。これが「異端者は自分たちを見下している/敵意を抱いている/自分より劣る存在である」といった思い込みや村八分に繋がる。
- 弱いと規定したものに対しては、陰湿且つ徹底的に圧迫を加える。
- 構成員は陰口を好む。
- 有形物のみならず時間や空間に対する共有意識も強く、プライベートやプライバシーといった概念が無い。
- 事なかれ主義。「される方が悪い」という理論で被害者を悪者にする。
- "掟"に関与しない一般のルールやマナーにはルーズ。他者がルールを守る姿にも息苦しさを覚える為、他者にもルーズさを強要。「マナーを守らないのがマナー」と化している。
- 知識人の不足と年長者の影響力により、架空の法律のでっち上げ、神頼みといった非常識がまかり通る。
ということだそうです。
つまるところ閉鎖環境における排他主義的な社会構造のこと。
日本の社会の事を示しているように感じます。
ここ数年これを感じることが多くて、結局小さなムラの集合体が今の世の中なんだと改めて認識したわけです。
なにがいいたいのかというと、結局自我の存在を否定する社会って面白くないなと。
違うことに恐れすぎている自分がどこかにいて、それにとらわれるようになってきた。
だから何をしていても面白くないと感じてしまうのではないだろうか。
ひたすらに最近は誰も知らないようなところに行ってしまえばよかったなと思いました。
苦しいです。
ある一面では周りと違うことを恐れている自分がいて、違う一面では勝手に言わせておけばいいと思っている自分もいて。
なんかもうどっちつかずな自分がとっても嫌です。
でも勝手に言わせておけばいいっていうのが本心に近いのかなとも思います。
「自分がどんなことをしても二割の人は必ず不快に思う。六割の人はどうとも思わない。残りの二割の人は好ましく思ってくれる。」
どっかで見た言葉ですが、本当にそのとおりだなと。だったらその好ましく思ってくれる二割の人を大切にしようと思うのです。
多くの知人がいることは今の自分にとって、決して重要なことではない。
大切なことは大切にしたい人たちとの絆を持ち続けていこうとすることかなと。
それにむかって今はその苦しみをうけるしかないな。
すこしすっきりしました。